じぶん

 失恋をした。なんだかこう言葉にしてしまうとあっけないことだけど、やっぱり悔しくて、一緒に過ごした時間はいまだに輝いていて、やるせない気持ちになる。すでにもう一週間がたつのか。この、一連の二週間は、俺の中では感情の動きの流れがあまりに大きくて、おかげでいろいろなことを考えられて、いろいろな夢も見つかった。

 俺のじいちゃんは俺が中学三年のとき、受験のために内申点が必要で、最後のテストに奔走していた、そんな時に亡くなった。今考えれば、そんなテストなんてどうでもよかったし、もっと真摯に死に向き合うべきだったのかもしれない。それより、もっとじいちゃんとたくさん話したり、手紙をしっかり返すべきだったと後悔する所もある。(そうだ、近いうちにばあちゃんのところに行こう)でも、それよりも今となってじいちゃんの言葉が一つ一つ光って見えるんだ。俺のじいちゃんは、最後の正月に、俺に一言を加えたお年玉をくれた。そのポチ袋は今でもとってあるし、その言葉は俺の脳裏に刻み込まれている。「夢を持ち続けて、強く賢い人になってください。」こう書いてあった。いま、その意味がようやく分かってきたように思える。

 俺が好きになった人は、感受性が鋭くて、自分のやりたいことを持っていて、それに対してためらうことなく挑戦することが出来る。好きなことに対しては、笑顔で難なく乗り越えてしまう。そして、自分のペースでそれに取り組んでいくんだ。きっといろいろなものを見て、考えてきたのだろう。でも、やっぱり普通の女の子で、俺はそんな彼女が大好きだった。いまだに少し茶髪で、パーマをかけた人が歩いているとそうなのではないかと思ってしまう。

 彼女はファンタジーが好きだった。サンタクロースがいないという意見に対して、サンタクロースというみんなに共通した像があって、親がそれになって、プレゼントをくれるのなら、それはサンタクロースがいるということじゃないかとか、思い出も自分の楽しいように、自分にとって意味を持つように少し現実と異なる部分があっても、そう語ってしまった方が楽しいじゃないか、と言っていた。彼女は、ビックフィッシュが大好きだった。

 長い時間を過ごしたかのように書き連ねているが、本当は知り合ってから3-4か月ほどしかたっていないし、あったのも両手で数えられるほどだ。よくぞこんなにつらつらと書けるものだと自分でも思う。もう線文字を突破しそうだ。

 俺は彼女の考え方が好きだった。彼女が好きだから考え方も好きなのかもしれないが、とにかく大きく影響を受けた。

 最近俺はこう思うんだ。俺たちがすむ世界の文明は大きく進歩して、安全に生きていけるようになった。それによって、あるプロセスのスタートとゴールがはっきり見えるようになって、だからそれの対処法も大体わかるようになってしまった。どのようにして人と関わるか、どのようにしてお金を稼ぐように、稼げるようになるか、どのようにして幸せになるか。

 多分日本に住んでいて、俺がそうであるように、高校から大学に進学して、ある程度社会のレールに沿って生きている人ならわかると思うんだけど、多分、ぼーっと四年間をただひたすらに授業を受けて、部活をやって、あわよくば留学に行って、そして就職するんだろうなーと、大学に通っているとそこはかとなく思わされる。

 もちろん日常の一つ一つの行為は俺が決断を下したもので、どう発言するか、リアクションをとるか取らないか、ご飯を友達と食べに行くかなんてことは俺の意思決定の結果となる。だけど、その大枠は、なんていうか、その環境自体は、別に選択しなくとも勝手に何をするべきか俺に伝えてきて、このような環境に行くべきだ!とかこそこそと耳元でささやいてきているように思える。それってつまり、人生の舵を握る、方向をつけるところを社会的な何かに任せてしまっているってことなんじゃないかなと思う。

 なんでこんな風に感じるのかはわからない。でもうーん、同町圧力のようなものが、俺の中で、見えないうちに根を張っているのじゃないかなと思う。なんていうか、多分周りの友達もこういう風にするだろうし、まぁ、だったら、、みたいな。変に注目を浴びたくないと思うし、そのためなのかもしれない。きっと俺が勝手に周囲の期待を、周囲の行動を想定して、それに応えたいと、それに逆らって変に思われたくないと思っているのかなと思う。

 でも、人は結構みんな寛容で、意外とそんなに俺に関心なんて持ってなくて、期待もそもそもしていない。いや、俺は期待されたいし、頼られたいんだけどね。まぁ、だからなのかもしれない。信頼されたいがあまり、自分を見繕って強く見せようと思って自分で生きづらくしているのかもしれない。でも結局それはあんまり人には良く映らないと思う。

 突然だけど、俺は世界は二種類あると思うんだ。一つは、この地球の上に繰り広げられる世界で、多分俺がいなくても勝手にどんどん進んでいくし、いろーんな人が暮らしている。俺の知らないところでも常に、誰かが動いて、そして俺もその一つの現象として動いている、俺の手を離れた世界。そして、もう一つが、その世界を、俺が見て、感じて、考えて、俺の中で作り上げる世界。俺はこの二つの世界の狭間で生きているのではないかなと思う。おそらく、時間という両者の媒介者を通して。なぜなら、俺は今、前者の世界のことは一切考えていないけど、でも必然的に、俺は俺として他者から何かを書いているというふうに見られるし、こうしている間にも時間は進んでいて、この後の予定の時間が徐々に迫りきているから。

 俺の今の所の目標は後者の世界を作り上げること。俺のペースを、俺だけの世界を作り上げること。そのためにはいろんなものを見ないといけないし、前者の世界に広く目を向けている必要があると思う。視野を広く持つこと。これが俺の当面の課題。いろんなものを見て、素敵だなと思うもの、考え方を取り入れていって、俺だけの世界を作る。あわよくば誰かと共有したいところではあるけど。

 でも、そのためには俺は動いていないといけない。同じ場所にずーっと立ち尽くしていても新しい世界は見えてこないし、俺はその世界に段々と無力感とも似た心地よさを感じ始めるだろう。別にそれは悪いことじゃない、けど、俺は色々な世界を見て、その上で一番俺に合ったものを、俺自身で考えだし、俺自身の手で選び取りたい。

 なんでかって、多分影響されてしまったから。自由な生き方に。そしてその自由な生き方の、生きている実感というものを知ってしまったから。何に所属しているから、誰にどう評価されたからとかではなく、俺がいいと思った生き方を、俺の手で掴み取りたいと思ったから。俺が世界と触れ合って、どう感じたかということを、社会的な力に屈することなく感じ取りたいと思ったから。俺の感受性を、大事にしたいと思ったから。

 夢ってなんだろうっと考えた時に、おそらくいろんな答えがある。例えば、小学校でかたらされるような将来の職業のこと。でも、きっとそれだけじゃなくて、もっと身近なモチベーションのことも夢だって言えるだろう。海外に行くこと、知らない人と話をすること、俺の感受性を再発見すること、俺の世界を作っていくこと、ワーホリに行くこと、一人で立てるようになること、バイトを始めること。多分、人から押し付けられたんじゃない目標があれば、そうなりたい、そうしたいと思えるような目標は全て夢だと言っていい。俺が望むものはきっと全てが夢だ。そして、夢は一つに絞る必要なんてない。たくさん、いろんな軸での夢を持って、どんどんどんどん更新して、どんどんどんどん夢を増やしていきたいと思う。きっとそれは、俺の世界を作っていくということにも繋がってくる。夢を持って、世界を持って、それを行動に移していく強さ、その行動を確実にするため、死なないようにするための賢さ、それを持って生きていきたいと思う。

 世界っていうのは、言い換えたら、自分の行動規範だ。自分の行動規範を自分の中に持つこと。そして、夢ってのはその行動規範の目的なんだと思う。だから両者はつながっている。目的を達成するために、自分の行動を変えるから。感受性は、どこに位置づけられるかな。

 この前者の世界っていうのは、とてつもなくカオスで、そもそもそれを理解するためには、いろんな補助線が必要で、その補助線を引いた世界というのが、内面の世界だということもできると思う。世界をまなざすことのできる視点というのも一人ひとり異なるし、視点が違えば見えるものも違うのだから、必要な補助線の数も、質も、方向も一人一人違うはずだ。だから、この世界をどう見るべきか、というのは一意に定まらない。

 見ている世界が違えば行動規範も違うのだから、一人一人夢も違うし、一人一人感受性も異なる。でも、多分みんなそれを持つのが怖いんだよね。だってそれは孤独だから。自分の夢を強く持てば、自分の感受性を大切にすれば大切にするほど、周りの人間とは異なることになる。似たような方向性に進む人もいるだろうけど、そもそも夢を持たずに、感受性を放棄してしまった方が同質性は高い。そうすれば、すぐに似たような、安心材料が身近に見つかって、方向性を間違う恐れもない。

 夢を持たず、感受性を捨てた時、そこには生きるモチベーションがないように思えるけど、なんて素晴らしいことに、俺たちの社会にはそこで方向性を示し出してくれる指標を持っている。教育だ。

 教育は、今軽く調べたら、知識を伝授することらしい。それは間違いなく大事だ。人生を賭けても辿り着けないような広がりを、その歴史の積み重なりと、知識を生み出した先人の数だけ見せてくれる。大いに夢を広げて、新たな世界を見せてくれることだろう。だけど、教育には必然的に評価がつきまとう。その目的は世界を耕し、夢を広げること、自分の幸せを見つけて追求することかもしれないけれど、俺はその評価を得るということに固執してきてしまった。

 教育というのは世界的に重要だとされていて、俺もその重要性は認識する。だけど、その影響力が世界的で、あまりに強いがあまり、教育の評価で重要とされていることが絶対的に大切なのだと錯覚してしまうんだ。でも別に教育の場が全てなわけじゃない。教育の場から一度離れたらすぐにわかることだけど。というか、その評価というものも特定の教員から、どうやっても恣意的にされるものだから、絶対的じゃないなんてすぐにわかるのに。でなければ落単という言葉なんて存在し得ない。でも、その評価はどれもが比較可能なように、数字や段階で示される。高い方が偉い。まるでそう言っているかのように成績表の数字は俺に迫ってくる。

 でも、そんな数字は俺の人生に何もしてくれない。やることがないなら、と数字を取るようにも言われるけれど、俺はそうじゃないと思う。数字は結果に過ぎないよ。何をする気でもなく、とにかく評価軸に自分を合わせて勉強したところでなにも残らない。どこかで生きるかもしれないけれど、大抵は大事な場面で思い出せるほどに強く印象に残ることはない。せいぜい振り返った時にこんな切り口もあったなと思えるくらいだ。

 だからね、俺が結局言いたいのは、俺はこれから俺を大切にしようってこと。俺が一人で立てるようになれるくらいには大切にしようってこと。他の評価軸に振り回されないくらいに俺の声を聞こうってこと。俺が声を上げられるように、俺に、赤ちゃんに言葉を教えるのと一緒で、いろんな世界を見せて、どれが好きなのか聞き取ろう、そしてそれを選択しようってこと。他人に俺の人生を握らせないぞってこと。そのために、夢を持ってどんどん行動して、いろんな人と話をして、考えを聞いて、俺が俺でいられるような場所をたくさん持とうってこと。場所によって出せる俺も異なるし、どんなに意識的に俺でいようとしても、無意識のレベルで俺の態度は変わってしまうから。いっぱいいろんな俺を出せるところは必要なんだと思う。それで、そのために俺は俺でいることを恐れないということ。多分、他の人もその人でありたいと願う気持ちはあると思うんだよね。でもそれが受け入れられないと思うと怖くて自分なんて出せない。だから、俺はまず、俺でいることで、あなたでいて大丈夫ですよって示してあげたい。多分、どんな人も受け入れるってのは無理だけど、でも出してくれたあなたを尊重するし、大切にしたいってことも伝えたい。それで、もし出せなくても、俺が読み取ってあげる!くらいの心意気で、わからないあなたも受け入れますよって、だから俺の俺がわからない部分も見てよ!ってそんなコミュニケーションをとっていきたいな。